「サキリ」という事について:

  • 2019.03.21 Thursday
  • 11:38

 

「ヲシテ文献」って、文字は読めますけれど、意味がわからない言葉が沢山あって、大変ですね。聞いたことない単語があるし、古語辞書にも勿論載っていないし、『ホツマ辞典』に載っていればいいけど、そんに全部は載せられないでしょう。超古語なんですね。失われた超古語、何を意味していたのか?もちろん、その時代には周知の言葉であって、概念だったのだと思いますね。難しいけど、その失われた単語の意味が解れば、超古代の人の心にも近づけるわけです。

そこで、今日のテーマは、「サキリ」という言葉を考えるです。

 

(前回の京都御所の特別公開のときの生花です:流石に綺麗で立派ですね!)

 

「サキリ」という言葉は、『ミカサフミ』の「タカマナルアヤ」に出ている言葉の中でも、「サコクシロ」の次に難解な言葉だと思いました。・・・でも、キーワードだと思いますので、重要ですね。

どの様に重要かと言いますと、「サキリ」という言葉が、ヤマトの国の根幹をなす思想を示しているように、私には思えました。

しかも「クニトコタチ」さんの最初の時代から連綿と続く、元々のヤマトの価値観を示しているのではないかということです。

この捉え方に妥当性があるのか?「タカマナルアヤ」以外の用例で見ても、整合が取れているのか?ということになりますね。

 

(明治天皇の着られた黄櫨染:この色の意味もホツマツタヱに書いてありましたね)

 

 

さて、「サキリ」の用例を調べてみますと、全部で4例出ていました。

『ミカサフミ』に3例と『ホツマツタヱ』にも1例ありました。でも殆ど『ミカサフミ』ですね。

 

ホ2-4(255)         クニサツチ サキリノミチオ

ミ2-4(10993)     クニサツチ サキリノミチオ

ミ6-27(11447)    サキリナス ヱニユツルキリ

ミ6-29(11452)    ハノサキリ テレハタタユル

 

この4例について、順次見ていきたいと思いますが、いつもの様に、結論を先に申しますと、

サキリ」とは、一言でいえば『譲位』とか『収穫期の終わり』という様な意味になるのではないか?と、思いました。

 

つまり、「サ」の「キリ」で、「サ」とはこの場合「差配・采配」つまり政(まつりごと)を司ること、または幸(さち)という意味で、「キリ」とは、限り(きり)をつける事という意味になると思います。霧というニュアンスもあるので映像とも絡んで、意味が深いですね。「サキリ」は、我が国においては、リーダーとして最も大切な資質として次に「譲る」という事が、何にもまして重要だったことが判る言葉だと思います。「サ」(幸・収穫)も「キリ」(終わり)があるからこそ、次の収穫期があるのだと思われていた様ですね。

 

では、一つずつ見ていきたいと思います。

 

ホ2-3(251)

トコヨクニ ヤモヤクタリノ

ミコウミテ ミナソノクニオ

ヲサメシム コレクニキミノ

ハシメナリ ヨツキノカミハ

クニサツチ サキリノミチオ

ウケサレハ サツチニヲサム

ヤミコカミ オノオノミコオ

ヰタリウム ヤモノヨツギハ

トヨクンヌ 

 

トコヨクニ    =トコヨクニでしたが、

ヤモヤクタリノ  =次には、八方に八降りの

ミコウミテ    =御子を産みて

ミナソノクニオ  =皆、その國を

ヲサメシム    =ヲサメさせました。

コレクニキミノ  =これが、國君の

ハシメナリ    =初めです。

ヨツキノカミハ  =その次の世継ぎのカミは、

クニサツチ    =クニサツチと言います。

サキリノミチオ  =「サキリ」の道(次の世代に譲る道)

ウケサレハ    =受けて、位を去ったので、

サツチニヲサム  =今ヲサメている地で、次の世代にヲサメさせました。

ヤミコカミ    =八人の御子のカミが、

オノオノミコオ  =それぞれ、男の御子を

ヰタリウム    =五人産んで、

ヤモノヨツギハ  =八方の世継ぎは、

トヨクンヌ    =トヨクンヌという名前になりました。

 

※この場合の「サキリ」の道は、次の世代に譲る道という意味にとりました。

 

 

ミ2-4(10993)     

クニサツチ サキリノミチオ

※『ミカサフミ』2−4は、『ホツマツタヱ』2−3と同文でした。

次に行きます。

 

 

ミ6-27(11445)

ミヲヤカミ ミテクラソムル

ハルアキノ イキハクタヨリ

サキリナス ヱニユツルキリ

ヒオマネキ フユヒヲカエス

 

ミヲヤカミ   =三人の親カミ様(イサナギ、イサナミ、タマキネ)の

ミテクラソムル =宮の蔵をいっぱいに満たす

ハルアキノ   =春や秋の収穫、それを齎らす

イキハクタヨリ =イキは、ナカクタより吹き出て

サキリナス   =次には、「サキリ」(幸の齎らしの終わり)を成します。

ヱニユツルキリ =「ミ」から、「ヱ」に譲る「キリ」(限り・切り)は、

ヒオマネキ   =陽を招いて(もしくは一温か?)

フユヒヲカエス =冬には、一温を返す。

 

※この場合の「サキリ」は、幸(さち)の収穫の終わりという意味に取りました。

 

 

ミ6-28(11450)

      アメユツルヒハ

アノサギリ クニユツルツキ

ハノサキリ テレハタタユル

ミナカヌシ アキリニノリテ

ヤモニユキ ヒツキノミチオ

 

アメユツルヒハ =天(アマカミの位)を譲る日(キミ)は、[雨に譲る太陽(晴れ)は]

アノサギリ   =天「ア」(アマカミの位)の「サギリ」(譲位)です。

クニユツルツキ =國を譲る月(クニカミ)は、

ハノサキリ   =派「ハ」(=地方)の「サキリ」(譲位)です。

テレハタタユル =故に、讃える

ミナカヌシ   =ミナカヌシ

アキリニノリテ =天「ア」の「キリ」に乗って(宣りをして)

ヤモニユキ   =八方に行き

ヒツキノミチオ =日継ぎの道を・・

 

※「サキリ」を簡単に「譲位」と取りましたが、「アのサギリ」「ハノサキリ」をすることによって、

「ミナカヌシ」が讃えるという記述は、凄いですね。

 

 

以上見てみますと、結局は3例と、意外に少なかった用例ですが、特筆に値する記述はやはり、

「テレハタタユル ミナカヌシ」ではないかと、私は思いました。

最初の人類である「ミナカヌシ」、私たちすべての親カミが、自分より能力が上の人がいたら譲る様にと言い、

譲るからこそ、また次の場所へ行って、人々を助ける教えを広めることもできるのだと、「譲る」ことの大いなる美徳を讃えておられるわけですね。日本にはこんな思想が、原初からあったということの凄さ、素晴らしさを感じないではいられません。

ヤマトの人々がトップ争いを良しとしなかったのは、支配のための政(まつりごと)ではなかったからですね。

タミの幸せの為にこそ、より優れたリーダーは選ばれるべきだという思想があって、

それを「サキリ」の道と言われていたのではないかと思いました。

 

 

(『獅子』が、即位式の時の絵にも描かれていました:猿田彦さんの神楽獅子ではないか?と)

 

(こちらは、『狛犬』の絵ですね。海幸彦の白髭さんdすね!きっと)見守ってます

 

(『狛犬』の頭に角があるのは、問題起こしたことある名残ですね♪たぶん)

 

前回の『獅子』『狛犬』が紫宸殿の真ん中に描かれていているお話にも繋がりますが、二人の「シラヒケ」カミが讃えられて、神社の前の「獅子」「狛犬」にもなって末代まで残るというお話も、その事の意味を伝えているような気がいたします。「サキリ」って、「幸せの暖かい霧」っていうイメージもありますので、霧に乗ってどこかへ行こうか!って、石原裕次郎みたいで、ちょっとカッコいいと思うのは、私だけでしょうか。(「夜霧よ今夜もありがとう」でしたっけ・・)(^_^;)

 

また、ご意見などございましたら、コメントをよろしくお願いいたします。

 

 

京都御所も素晴らしい弥生(3月)の「ヲシテ講習会」:

  • 2019.03.17 Sunday
  • 18:39

 

昨日は、京都「ヲシテ講習会」にご参加の皆様お疲れ様でした。今月も大変に楽しい講習会でしたね。

今月は京都御所の特別公開の週とも合っていまして、お昼の食事会が始まる前に少し時間がありましたので、折角の良いタイミングですので、御所の見学をさせて頂きました。流石にいつもより人出も多く、外にはお土産物屋さんも沢山並んでいて寒くはありましたけれど、少し春のお祭りの気分になりました。

 

(車寄せの前に置かれた『花車』:本物を見ると、びっくり感動の美しさです!!\(^o^)/)

 

御所に入ってまず、いつもと違って目を引きましたのは御車寄せに置かれた『花車』でした‼(°▽°)❤   もう、素晴らしくて美しくて圧巻でした。床の間にお飾りの花車や絵柄に描かれた花車はよく目にしますが、本物の花車を見たのは初めてでしたので、気分は急上昇の大感動でした‼

 

(『牛車』の美的価値は素晴らしいです!しかし、乗り心地は今の車の方が良さそうではあります。)

 

次は、新御車寄せの前の『牛車』です。天皇の乗られる御車も素晴らしいですね‼乗り心地は今の車とは比べものにならないでしょうけれど、美しさと優雅さは、現代の比ではないですね。流石は御即位30周年記念の特別公開週間ですね。

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(みんな紫宸殿の前に、入っちゃってますよ!(@_@))

 

(こんなに近くから見られます。真ん中の壁面に、向かって左に『狛犬』右に『獅子』その上には『鳳凰』の説明があります)

見えにくいかな。真ん中のパネルが説明書きです。

 

(拡大してみたら、上は『鳳凰』ではなくて亀でした。)3/19追記

※この図からも、「獅子」「狛犬」が水辺に関係すると思えますよね

 

紫宸殿も今は、だんだんに中庭へ入れるようになって、今回は遂に、紫宸殿の真ん前をズバッと横切って清涼殿側へ渡れるようにもなってしまいました。こんな中に入らせて貰ってもいいのでしょうか?江戸時代は、即位の礼の行われた場所ですよ!(⁎⁍̴̆Ɛ⁍̴̆⁎) 「・・・かなじけなさに 涙こぼるる」思いをしながら、(・・・外人の観光客の皆様には分かるかな〜??)

それでも折角だから、しっかり写真も撮らせてもらって、と、見ていますと大勢の皆様に混じって1名ほど知ってる人のお顔もありました。

 

(吉田さんも紫宸殿の中庭に・・。手振っても、この時は気がついていないみたいでした。)

 

「あ、吉田さんやないの?!」と、紫宸殿中庭で、発見!(°▽°)  清涼殿で合流しました。

「本当に今日の展示は、素晴らしく美しいですね!」と言うようなお話をしていながら、狛犬の展示も見つけて、そちらへ足を運びました。古い時代の宮殿の中に置かれていた狛犬は流石に美しいですね!獅子や狛犬はいったい何が起源なのだろう?という疑問はずっとありましたが、もう諸説あって今は特に考えなくなりましたので、とりあえず美術品としての美しさだけ、その時は堪能していました。きっと、一緒に見ていた吉田さんもそうだったと思います。

 

(この左側のパネルの図が、即位の礼の時に、狛犬と獅子が『浜床』(はまゆか)の上に乗っている図です)

※見えにくいかもしれませんが、ミトバリの左の両側にちゃんと座っています。

 

(上のパネルの写真の拡大です:浜床(はまゆか)の上に『獅子』「狛犬』が見えます)

 

(ここの文章、大事ですね!『獅子』と『狛犬』は、玉座を護る役割ですからね!)

 

 

(クローズアップすると、こんな感じです。望遠レンズを持っていって良かったです!)

 

ところがですね、

今回の「京都ヲシテ講習会」の25アヤで、偶然にもその狛犬の起源のお話が池田先生からありまして、びっくり致しました!!

 

『ホツマツタヱ』の25アヤには、海幸・山幸の争いの際に、兄の「サクラギ」さんが水に溺れるシーンで、

「ワレナガク    オトノコマシテ    カテウケン」

(=私は長く、弟の駒として(言う事を聞いて)糧を受けます(下になって働きます))と言う言葉がありました。

ちょっと、書き出してみますね。

 

ホ25ー41

シレバサチ     シラネハオトヘ

コマハイニ     ワヒコトアレト

イエハナオ     イカリテフネオ

コギイタス     

 

シレバサチ   =(こんなこと)知っていればこそ、海幸彦と言われているはず!

シラネハオトヘ =知らないと言うのなら、弟へ

コマハイニ   =駒這いになって(土下座をして)

ワヒコトアレト =お詫びの言葉を言いなさい!

イエハナオ   =そう言ったら、尚更に

イカリテフネオ =(兄は)怒って、船を

コギイタス   =漕ぎ出しました。

 

シガノカミが、仲裁に入って、サクラギさん(海幸彦)の謀略を懲らしめるシーンですね。

 

ホ25ー43

タマノミツ  アフレテステニ

シツムトキ  ナンチタスケヨ

ワレナガク  オトノコマシテ

カテウケン  ココニユルシテ    

ムカヒフネ  ミヤニカエリテ

ムツミテソサル

 

タマノミツ    =玉の水が

アフレテステニ  =溢れて既に

シツムトキ    =(サクラギさんが)沈む時になって、

ナンチタスケヨ  =「お前さん、助けてくれ!

ワレナガク   =「私はこれから長く

オトノコマシテ =弟の駒として(言う事を聞いて)

カテウケン   =糧を受けます(下になって働きます)

ココニユルシテ  =ここに許して、

ムカヒフネ    =迎い船で、助けてあげました。

ミヤニカエリテ  =宮に帰って、

ムツミテソサル  =仲直りをして別れました。

 

ここに書いてあるように、「オトノコマシテ    カテウケン」という言葉が、そのまま形になって現れていると考えたら、まさに狛犬は、「サクラギ」さんが駒這いになっている姿ですね。

 

(やっぱり、白髭さんですね!こちらのシラヒケさんは、サクラギさんか?)

 

実際に、明治天皇の即位の礼の絵を見ましても、狛犬浜床(はまゆか)の上の御帳台(みちょうだい)の上にのっています。浜床の上ですから、この時のシーンを思い浮かべますね〜!そして、こ狛犬のお髭(ひげ)をみましても、犬なのに白い髭が付いていますよ!!(@_@)    し・・白髭さん(=サクラギさんのこと)ではありませんか!!

 

これは、後から写真を見直してみて、気がついた事ですが、今回の講習会での池田先生の説が、益々説得力を持って来ました。まあ、本当に良いタイミングで、御所の特別公開があったものです!!✌('ω'✌ )

 

今回の展示で気がつきましたことは、向かって左側が「狛犬」で、右側が「獅子」なんですね。両方狛犬とも言うし、また両方獅子とも言うのかと思っていました。紫宸殿の中央の壁面にも絵が描いてありまして、上に鳳凰その鳳凰の左には獅子、右に狛犬という配置になりますね。今更のように発見しました!(※上に鳳凰ではなくて、『亀』でした。拡大図で気がつきました。ますます、亀と言いますとウツキネさんを連想させますね!3月20日追記)

と言うことは、神社も向かって左側が狛犬で、右側が獅子と言うことになるのでしょうか?

 

ついでながら考えますと、

獅子はサルタヒコさんが退治した、あの縁起の良い伊予の獅子のことだったのでしょうか??

そこのところを書き出してみますね!

 

ホ40ー91

シシマイオ     トエハトキヒコ

コレムカシ     イヨニワタリテ

シシハムオ     ツチキミトリテ

タテマツル     キミタノシミノ

カクラシシ     ヤヨロカシマニ

アルカタチ     サワリナカレト

モテアソフ     サルタノカミノ

ナニシアフ

 

シシマイオ         =獅子舞の起源(謂れ)を

トエハトキヒコ =問うと、トキヒコは説明します。

コレムカシ   =「これは昔、

イヨニワタリテ =伊予に渡った時に

シシハムオ   =獅子(猪)が、食物を荒らすのを見て、

ツチキミトリテ =ツチキミ(=サルタヒコさん)が捕まえて

タテマツル   =朝廷に奉りました。

キミタノシミノ  =それが、君の楽しみとされる

カクラシシ    =神楽獅子です。

ヤヨロカシマニ  =彼方此方に

アルカタチ   =あるカタチ(行事)です。

サワリナカレト  =障碍が無いようにと、

モテアソフ   =獅子を弄ぶのは、

サルタノカミノ =サルタヒコさんの

ナニシアフ   =「去る」と言う名に因むものです。

 

(こちらは、サルタヒコさんが退治した縁起の良い獅子ですね、きっと!)

 

こんな風に書いてありますので、やっぱり、向かって右側の「獅子」は、サルタヒコさんの獅子なのでしょうかね〜。そういえば、サルタヒコさんも「シラヒケ」さんでしたよね!シラヒケさんコンビですね。獅子は、サワリ(障碍)が無いようにと朝廷を護っていると言うことでしょうか。(°▽°)

 

神社の狛犬(獅子)は、ユダヤのユダ族のシンボルであるライオンがモデルになっているというマコトシヤカなお話もありましたが、もう、そんなのは「ウンコメシアガレ!」(=糞食らえ!)o(`ω´ )oで、御座います。(笑)

ちゃんと日本にも、狛犬(獅子)の起源あったじゃないですか!、と思います。

・・ちょっと、序でに「獅子」についても考えてしまいました。

 

それにしましても、全国の神社に狛犬(=サクラギさん)が居て、神社のカミを守ると言うことは、逆に考えれば、弟の「ホオデミ」(ウツギネ)さんが、いかに崇められていたかと言う事ではないか、と想像できます。実際、『ホツマツタヱ』を見ても、ウツギネさんは筑紫の為に身を尽くして働かれた素晴らしいアマキミでしたね!・・・それだけに、反日勢力からの貶めが酷かったのも頷けます。反日勢力はヤマトタケさんの様な日本のヒーローを特に貶めますね。

 

・・・・・と、

ここまで書いて、ふと大切なことに気がつきました。

「獅子」と「狛犬」が、二人の「シラヒケ」さんだとしたら、サクラギさんも、もしかしたらサルタヒコさんと並び称されるくらいに、高い評価をされていたのではないか?と言うことです。

 

「シラヒケ」とは、どういう意味かと言いますと、

サルタヒコさんに関しては、安曇川の辺りで薬草で治療をしていて、病を元どおりに治してくれるので、「シラヒケ」さんだったと言う意味と、政治に関して「シラ」す道を自ら「ヒケ」たこと。だから、「シラヒケ」さんなのかな?と思っておりました。

一方のサクラギさんは、カニの病が引けて元に戻り、「シラヒケ」た事から「シラヒケ」さんなのかな?と思っておりました。

 

ところが、よくよく考えてみますと、サクラギさんも本来は、三つ子の兄弟のうちの一人ですから、皇位継承権はありました。だからこそ、兄弟争いもしたのです。ですが、一旦負けを認めてからと言うもの、素晴らしい理解力でスパッと引いておられます。そこのところは、「ミヤニカエリテ ムツミテゾサル」という、一文に現れていますね!

 

私は、兄弟争いの最後の決着が、たったの一行で終わっていることをいかにも不思議に思っておりました。

これだけの争いをしておいて、「宮に帰りて 睦てぞ去る」の一行ですからね!

そんなに簡単に、睦めるのか?!去れるのか?!というのは疑問でした!

その理由が、このサルタヒコさんと並んで護りカミになっている事に気づいて、やっと分かった様な気がします。

去り際の見事さ!負けを認めてから、弟と思っていた兄弟にも遣えるという潔さ!

 

ここを高く評価されていたからこそ、「サルタヒコ」さんと並び称されていたのではなかったか、と思いました。

サクラギさんも、「シラ」する道を「ヒケ」(引け)た「シラヒケ」さんだったのですね!

 

もともと、サクラギさんにだけ、何故カニの病があったのか?!その理由は、サクラギさんが皇室の夫婦仲の良し悪しを知らせる桜の木だったからですね。先祖のサクラウシさんは、桜の木をアマテルカミに捧げました。それをアマテルカミ様は喜び、内宮に植えて、夫婦仲を測ったという故事もありました。

 

ホ24-59(4994)

コノサクラ ムカシヒヲヲチ

サクラウシ コノハナササク

ヲヲンカミ オウチニウエテ

ハカリマス サクライアラハ

 

コノサクラ    =この桜は、

ムカシヒヲヲチ  =昔、曽祖父の

サクラウシ    =サクラウシさんが、

コノハナササク  =桜の木を捧げましたら、

ヲヲンカミ    =アマテルカミ様が、

オウチニウエテ  =宮内に植えて

ハカリマス    =(夫婦仲を)測ることにしました。

サクライアラハ  =桜に心があるならば・・・

 

このように、ニニキネさんとアシツヒメ(コノハナサクヤヒメ)の仲が悪かった時に生まれた、桜の木の名を持つ子だから、カニの病が出たのですよね。ある意味、サクラギさんは、犠牲者でもあったわけですね。弟に焼き餅を焼いて、争い事を起こしたのは悪かったけど、そのあとの引き際の見事さは素晴らしかった、立派な方だったということですね!!気がつきませんでした!(>人<;)

 

考えてみても、この御三人のコノハナサクヤヒメのお子様達は、何れも立派な方でした。長兄のムメヒトさんは、三つ子の兄弟にもかかわらず、お兄ちゃんとして弟達の争いごとに配慮する気配りが見られました。お兄ちゃんとて、一番の皇位継承権を譲った一人です。サクラギさんも、争い事はしたものの去り際の見事さ!みんな素晴らしいお方でしたね!

 

私は、やっとそれに気がついて、涙が溢れる思いです!!(T ^ T)

アシツヒメは、やっぱり、子の華咲くや姫です!

そして、あの京都の松尾大社のヤマクイさん、説得力・人間力の凄かったこと!

あの争いの後、たった一行「睦てぞ去る!」ですからね。

我らがヤマトのカミ(指導者達)は、素晴らしかったです!

 

 

と言うことで、3月も沢山の学びを得られました。池田先生や、講習会の皆様ありがとうございました!!(*^ω^*)

今月は「京都御所」の特別公開も美しかったですし、展示からも講習会の内容にリンクして、凄い発見がありました。

「ヲシテ講習会」に参加すると、やっぱり良いことありますね!\(^o^)/

 

 

来月は4月20日、京都の桜が楽しみです。きっと、京都御苑の枝垂桜はまだ、ちゃんと見られると思います。

 

「サコクシロ」という言葉について:

  • 2019.03.14 Thursday
  • 22:50

 

今日のテーマは、「サコクシロ」について考える、です。

 

「サコクシロ」という言葉は、『ミカサフミ』の「タカマナルアヤ」でも、一番くらいに難解な言葉のような気がします。それがキーワードにもなっていて、先ずは「サコクシロ」の意味が分からないと、「タカマナルアヤ」の読み解きも難しいと思いまして、先にこの言葉だけでも、意味を考えてみたいと思いました。

 

(「タカマナルアヤ」の学習ノートより:ヤマクイさんは変な顔になりました。)

 

いつもの様に、結論から先に言いますと、「サコクシロ」には大きく2つの意味があると思いました。

1つは、場所としての意味、もう1つはタイミング(時)としての意味です。

 

まず、場所としての意味は分かりやすいと思います。「タカマ」を祭る場所のこと。「タカマ」とは、天から地上の人々を見守り、季節をもたらしてくれて人の体や食糧の恵みを与えてくれる、星となったご先祖のカミを祭る宮のことですね。

ですから、「タカマ」は別の呼び方で、「サコクシロ」とも言うのかもしれませんね。または、「タカマ」を祭る宮が「サコクシロ」なのかも知れません。

 

2つ目の意味としては、「サコクシロ」というタイミングです。

「シロ」とは、場所の意味もありますし、時の意味もあると思います。ですから、

「クサナギテ コホシオマツル」という言葉と対になって、

「サコクシロ ニテミコトノリ」という言葉が使われているような気がします。

 

「クサナギテ」とは、以前にも意味の解釈をしましたが、→(「クサ」という言葉の意味について、考える:

 

大雑把に言ってしまえば、「クニトコタチ」のカミと「トホカミヱヒタメ」のカミのお陰で、世のクサが凪いだ、そのタイミングで、「クサナギテ」九星を祀ったということであり、感謝の意味と新しい祭祀が始まったという意味が含まれているのだと思います。

 

そして、次の段階での世の中のおさまりは、「キツヲサネ」のカミと「アミヤシナウ」のカミが「ア」=天に還り、いよいよ国の政治が行き届いて、1つにまとまって来たタイミングで、その感謝と更に新しい祭祀が始まるタイミングとして、

「サコクシロ ニテミコトノリ」だったのではないか?と、思いました。

 

「サコクシロ」とは、ヲシテで分解して考えますと、「サ」=幸い 「コ」=固める 「ク」=来る、来たらせる

「シロ」=場所、時 であって、[幸(サチ)を確かに来たらしめる場所、その時]という意味になると思います。

 

とりあえずは、この様な結論になりましたが、それでは、用例に従って考えて行きたいと思います。

 

「サコクシロ」の用例はいくつかありまして、「サコクシ」を合わせると12例ありました。

 

ホ28-33(7208)  サコクシロ ウチノミヤヰニ

ホ28-42(7243)  サコクシノ フユノカカミニ

ホ28-51(7278)  ミモスソノ サコクシロウヂ

ホ36-26(9302)  サコクシロ ウチミヤニイレ

ホ36-34(9334)  サコクシロ ウチニワタマシ

ホ36-36(9343)  サコクシロ シキナミヨスル

ホ40-19(10471)  サコクシロ カミノヤテヨリ

ミ6-12(11386)  アニカエリ サコクシロニテ

ミ6-14(11392)  ナヨノカミ ミナサコクシロ

ミ6-31(11461)  サコクシロ カレカミマツル

フ0-3(11940)  サコクシロ アメノミヲヤニ

フ-56-ヲヨロ(12409)  サコクシロ ウムヒトハカミ

 

この様に『ホツマツタヱ』には、28アヤ以降の用例として出て来ます。『ミカサフミ』には「タカマナルアヤ」に3例出て来ていまして、この方が、古い用例のような気が致しました。どちらかと言いますと、『ミカサフミ』の方に、意味を解くヒントを感じました。

では、これらの用例から、どの様な意味に使われていたのか?を順にみて行きたいと思います。

 

ホ28-33

ヲヲンカミ ミヤウツサント

ミモカワニ アノホルチヱテ

サコクシロ ウチノミヤヰニ

 

ヲヲンカミ    =アマテルカミは、

ミヤウツサント  =宮を遷したいと思われて

ミモカワニ    =ミモカワの近くに

アノホルチヱテ  =天に通ずる地を見つけて(ご自分の終焉の地を見つけて)

サコクシロ    =「サコクシロ」をお築きになられました。

ウチノミヤヰニ  =宇治の宮居に・・・

 

※ここでの「サコクシロ」の意味は、「場所」を意味していると思います。

 

 

ホ28-42

ヒトツネニ カミニムカハバ

ヨノミミノ アカハアモトノ

サヲシカニ キヨメタマヒテ

サコクシノ フユノカカミニ

イルトオモヱバ

 

ヒトツネニ    =人は常に

カミニムカハバ  =カミ(ご先祖の霊)に向かう時は、

ヨノミミノ    =世のことを聞く耳が

アカハアモトノ  =垢で汚れているので、アモトの

サヲシカニ    =お遣いに

キヨメタマヒテ  =清めて頂きたいものです

サコクシノ    =「サコクシロ」

フユノカカミニ  =冬場の冷たい凜とした空気の下の「カガミ」に

イルトオモヱバ  =映されている自分を思うようです。

 

※ここでも、「サコクシロ」の意味は、タカマを祀る宮(場所)を示しているようです。

 

 

ホ28-51(7278) 

      ヒトツモチユキ

ヒヨミナス フタヱニサヅケ

ミモスソノ サコクシロウヂ

アラタメテ アマテルカミノ

ウチツミヤ ヤモツガフカミ

ハンベリテ ヒモロゲササゲ

アニコタフ       

 

ヒトツモチユキ  =(タマカエシのマツリノアヤを)1つ持って行って

ヒヨミナス    =ヒヨミノミヤの

フタヱニサヅケ  =アメフタヱさんに授け、

ミモスソノ    =ミモスソ川の辺りに

サコクシロウヂ  =「サコクシロ」ウチの宮を

アラタメテ    =新しく造りました。

アマテルカミノ  =アマテルカミの

ウチツミヤ    =内宮には、

ヤモツガフカミ  =沢山のお仕えするカミを

ハンベリテ    =侍らせる(お遣いさせる)ようにして、

ヒモロゲササゲ  =日々、ヒモロゲを捧げて、

アニコタフ    =天に祈りを捧げるようにしました。

 

※この用例はアマノコヤネさんが語られる場面ですが、ここでも、「サコクシロ」ウチはお祀りをする場所ですね。

 

 

ホ36-26(9302)  

サルタヒコ ワカゴニイワク

ワレムカシ カミノタマモノ

サコクシロ ウチミヤニイレ

アラミタマ ヤヨロホマチシ

カンタカラ アマツヒツギノ

 

サルタヒコ    =サルタヒコさんは、

ワカゴニイワク  =ワカゴさんに言いました。

ワレムカシ    =私は昔、

カミノタマモノ  =カミ(皇室のご先祖)からの賜物を

サコクシロ    =「サコクシロ」である

ウチミヤニイレ  =内宮に入れました。そして、

アラミタマ    =アラミタマを

ヤヨロホマチシ  =八万年待っていました。

カンタカラ    =このカンダカラは、

アマツヒツギノ  =天の日継ぎの・・・

 

※ここでの「サコクシロ」の意味も内宮の場所に取れます。

 

 

ホ36-34(9334) 

ヲヲンカミ ヰソススカワノ

サコクシロ ウチニワタマシ

ソナカノヨ ミタケハシラオ

 

ヲヲンカミ    =アマテルカミは、

ヰソススカワノ  =ヰソススカワの

サコクシロ    =「サコクシロ」

ウチニワタマシ  =内宮に御渡りになり、

ソナカノヨ    =17日の夜に

ミタケハシラオ  =ミタケ柱を・・

 

※ここでも、「サコクシロ」は内宮を別の意味で表現されているように思えます。

 

 

ホ36-36(9343)  

ツゲイワク ムカシワガスム

サコクシロ シキナミヨスル

イセノミヤ ナガクシツマリ

マモルベシ トヨケノカミト

モロトモゾ ヤマトヒメヨリ

コレオツグ キミヨロコビテ

 

ツゲイワク    =告げて言われるには、

ムカシワガスム  =昔、私が住んでいた

サコクシロ    =「サコクシロ」は、

シキナミヨスル  =シキナミが寄せる

イセノミヤ            =伊勢の宮です。

ナガクシツマリ      =長く鎮めて集まり、

マモルベシ    =護るべし

トヨケノカミト  =トヨケのカミと

モロトモゾ    =諸々のカミも一緒に

ヤマトヒメヨリ  =ヤマトヒメから、

コレオツグ    =この御告げを聞いて

キミヨロコビテ  =君はお喜びになられ・・

 

※この箇所も、「サコクシロ」は内宮の場所になっています。

 

 

ホ40-19(10471)  

アツタノリ

イナムトキ キツノシカヂト

タラチネニ ツカエミテネド

サコクシロ カミノヤテヨリ

ミチウケテ ウマレタノシム

 

アツタノリ   =アツタノリ

イナムトキ   =もうお暇を頂く時(亡くなる時)です。

キツノシカヂト =東西の長いお遣いの途中で、

タラチネニ   =両親には、

ツカエミテネド =まだ十分にお使えしてもいませんが、

サコクシロ   =「サコクシロ」にいらっしゃる

カミノヤテヨリ =ご先祖のカミの沢山の手が

ミチウケテ   =私をお導きになるので(もうお呼びがかかっているので)

ウマレタノシム =生まれた事を楽しんで・・・

 

※「サコクシロ」は、ご先祖のカミがいらっしゃる場所としての意味になっているようです。

 

ミ6-12(11386)  

カミハコレ ノチソヒノキミ

キツヲサネ アミヤシナウモ

アニカエリ サコクシロニテ

ミコトノリ ミナホシトナス

 

カミハコレ    =カミは、このカミです。

ノチソヒノキミ  =後に、11人のキミ

キツヲサネ    =「キ・ツ・ヲ・サ・ネ」と

アミヤシナウモ  =「ア・ミ・ヤ・シ・ナ・ウ」も

アニカエリ    =天に還り

サコクシロニテ  =「サコクシロ」になったので、

ミコトノリ    =その時のアマキミが詔をされました。

ミナホシトナス  =皆、「ミナホシ」としましょう。

 

※この場合の「サコクシロ」は、時を表す意味が先に立っていて、幸(食糧)が安定して与えられて、宮が地方に十分に建って行き渡り政治も安定して来た、そのタイミングのことを言っているように思います。

11人のキミのお陰と感謝をして、「サコクシロ」として、この時に新たに「キ・ツ・ヲ・サ・ネ」と「ア・ミ・ヤ・シ・ナ・ウ」を「スキトノ」に祀り、「ユキノミヤ」と合わせてこれを「タカマ」としたのではないでしょうか。

「タカマ」を祀る場所(宮)が「サコクシロ」ということで、時と場所の両方の意味が重なっている箇所だと思いました。

 

ミ6-14(11392) 

      クニトコタチノ

ナヨノカミ ミナサコクシロ

ヨリノホシ

    

クニトコタチノ =クニトコタチさんの

ナヨノカミ   =七代のカミは、

ミナサコクシロ =皆、「サコクシロ」

ヨリノホシ   =出来てからの星ですよ。(北斗七星か?)

 

※クニトコタチさんの七代のカミとなっていますが、クニトコタチさんは「サコクシロ」が出来るまでは、1つのカミに祀られていましたので、後に11の神がアに還られて、そのタイミングで「サコクシロ」を造った時に、クニトコタチさんの七代のカミも、皆「ミナホシ」(身・実を成す星)にしたという事を言っているのだと思いました。

 

 

ミ6-31(11461)  

      ヨソコノカミハ

アニカエリ モトノタカマノ

ハラニアリ クニタマクワシ

サコクシロ カレカミマツル

ハモタカマ スカノトコロハ

コレニクラベン

      

ヨソコノカミハ =49のカミは

アニカエリ   =天に還り

モトノタカマノ =元のタカマ(宇宙)の

ハラニアリ   =ハラにおられます。

クニタマクワシ =クニタマ(地球)の苦を和して、

サコクシロ   =「サコクシロ」をなして下さいました。

カレカミマツル =故に、そのカミを祀る

ハモタカマ   =分社も「タカマ」です。

スガノトコロハ =本社であるスガの(清々しい)「タカマ」は、

コレニクラベン =比べるべきもありませんが・・

 

※この場合の「サコクシロ」も、クニタマの苦を和して下さってアに還られ、「サコクシロ」をなして下さいましたと言うことで、時(タイミング)という意味も感じられる様に思います。

 

 

フ0-3(11940)  

ミコトノリ コノフトマニノ

ヨソコヲハ モトモトアケノ

サコクシロ アメノミヲヤニ

ヨルカタチ ソバニトホカミ

ヱヒタメノ ヤカミハヒトノ

タマノヲオ フクミフラセテ

 

ミコトノリ   =ミコトノリがありました。

コノフトマニノ =このフトマニの

ヨソコヲハ   =49の「ヲ」(祖先)は

モトモトアケノ =モトモトアケの

サコクシロ   =「サコクシロ」に祀られているカミです。

アメノミヲヤニ =アメノミヲヤを

ヨルカタチ   =中心に集まっている形です。

ソバニトホカミ =アメノミヲヤの側には、トホカミ

ヱヒタメノ   =ヱヒタメの

ヤカミハヒトノ =八つのカミがいて、人の

タマノヲオ   =タマノヲを

フクミフラセテ =含み振らせて・・

 

※「サコクシロ」は、宇宙の星そのものでもあり、地上の「タカマ」を祀る場所でもありますね。

 

 

フ-56-ヲヨロ(12409)  

ヲヨロ

ヲニヨロノココロハ

ウチノサコクシロウム

ヒトハカミカミハヒ

トナリ

 

ヲヨロ     

ヲニヨロノ   =皆に教えるということは、

ココロハウチノ =一方的なものではなく、内宮にある

サコクシロ   =「サコクシロ」の様に

ウムヒトハカミ =人がカミになるので(教えてもらった人が教える立場になるので)

カミハヒトナリ =カミというのは、結局人である。

 

※この場合も、「サコクシロ」は内宮にあるという場所を表しています。

 

 

以上、12の用例を見てみましたが、『ミカサフミ』での用例がやはり、一番「サコクシロ」の意味を表しているように思いました。

つまり、「サコクシロ」とは、

1、内宮の中に祀られていた「タカマ」のことを意味していて、また、

2、「クサナギ」九星を祀る と対になるように、「サコクシロニテ」十一の星を祀ったという、タイミング(時)をも表している言葉だと思いました。

「タカマ」は、今は新嘗祭や大嘗祭の時に設えられるようになっているようですが、アマテルカミのおられる頃は、常に祀ってあったということになるのでしょうか。

 

以上、「サコクシロ」について、用例に従って一通り考えてみました。また、勘違いしていることなど色々あると思いますので、ご指摘やご意見などをよろしくお願いいたします。

『トクサタカラ』(十種神宝)とはいったい何だったのか?について:

  • 2019.03.08 Friday
  • 23:10

 

以前から、一度ちゃんと考えでみたいと思っていたことの1つです。

『トクサタカラ』とは、いったいなんであったのか?

 

 

(石上神宮に伝わると言われる十種神宝の絵:詳細は未詳)

 

今日は、20アヤの「スメミマコトクサヱルアヤ」からの題材で、考えてみたいと思います。このアヤも短いですが、凄く内容の濃いドラマが詰まっているアヤだと思います。人間の「業」(ごう)の深さと、世の不条理を感じると言ったら良いのでしょうか。ホノアカリさんの恵まれた生まれにも関わらず、ネジけた性格とそれを容認するお父上のオシホミミさん、それにトヲヤである御祖父のアマテルカミ。

優しさなのか、緩さなのか?そこの判断のつかないところが、如何にも現実的でいよいよ深さを感じるところでもあります。

 

話は、今と同じ3月に、新旧交代の季節でもありますね。春日のココトムスビさんが、お年を召された事を理由に、政(まつりごと)を引退したいと申されたことから、事が始まります。それを聞いたオシホミミさんは、その時はヒタカミに政(まつりごと)をしておられたのですが、自らが葦原国へ出向いておさめましょうと思って支度をしていましたが、民が集まってきて頻りに留めるため、とうとう出られなくなってしまいました。仕方なく、オシホミミさんは、御子のホノアカリさんを少し早いでしょうが代わりに行って貰うことにして、その事をアマテルカミ様にも手紙にて相談されました。

 

アマテルカミ様からのお返事は、オッケーだったのですね!それと共に、アマテルカミ様は孫のホノアカリさんに、素晴らしいお土産も持たせて下さいます。それが、「トクサノカンダカラ」(十種神宝)だったのですね。ただ、これは「ミクサタカラ」ではありませんので、天皇の位を譲るという意味のタカラでは無くて、他の意味合いのものだと思います。

 

さて、年齢的にも性格的にもたぶん「ホノアカアリさん」には、ちょっと頼りなさを感じておられたであろうアマテルカミ様は、どんな気持ちを込めて、この「トクサタカラ」を授けられたのか?その意味を考えるのが、今日のテーマです。

 

私の最初の疑問は、何でこの子、ホノアカリさんだけはこんなに沢山の宝を貰ってしかも、大行列や豪華な飾りのイワクスフネで出かけるの?ということでしたが、立派というよりも、心配だからと言う意味合いが強いのだと思い至りました。

 

最後はやっぱり、到着と同時に大きな失敗をしてしまう、ホノアカリさんでしたが、アマテルカミさまが、この「トクサタカラ」に託されたメッセージは何だったのか?いよいよ今日の謎解きの部分に入りたいと思います。

 

ヲシテの文章は、このような記述になっています。

 

ホ20ーー5

サツケマス オキツカガミト

ヘツカガミ ムラクモツルギ

ウナルタマ タマカエシタマ

チタルタマ ミチアカシタマ

オロチヒレ ハハチシムヒレ

コノハヒレ コノトクサナリ

 

この文章が全てです。

 

それで、これだけではちょっと解り辛いですので、幸いなことに「石上神宮」の宝としてあったのだという話もあり、その絵があって、漢字で名前が書いてありますので、その読みからも判断してみました。

 

 

以下、考察の為に先ずは漢字で近い意味に置き換え、現在残る(漢字名)と比較してみました。

 

(ヲシテの名前)       (漢字に置換)(意味)(漢字名の読み)

 

オキツカガミ       置鏡:自分の姿を見る(おきつかがみ)

ヘツカガミ      辺鏡:自分の表情を見る(へつかがみ)

ムラクモツルギ    叢雲剣:悪党を斬る(やつかのつるぎ)

ウナルタマ      産成玉:出産を祈る(いくたま)

タマカエシタマ    霊返玉:葬儀を行う(まかるかえしのたま)

チタルタマ      幸足玉:恵への感謝する(たるたま)

ミチアカシタマ    道証玉:天の道を実現する(ちかへしのたま)

オロチヒレ      愚痴比礼:為政者の悪の防御(へびのひれ)

ハハチシムヒレ    派恥シム比礼:身内の悪(恥)の防御(はちのひれ)

コノハヒレ      固の派比礼:道具や武器インフラの整備(くさぐさのもののひれ)

コノトクサナリ

 

以上、見てみますと

トクサのカンダカラ」とは、10種のマツリゴトの為の、視覚化教材でもある様に思えます。

アマテルカミ様から、ホノアカリさんへのメッセージとして、政治(マツリゴト)をこれからしていく上で、気をつけるべき点を10個、形にして見えるようにして、持たせてあげたと考えると、何故ホノアカリさんだけは、「カンダカラ」を10個も余分にいただいたかの意味も分かるのではないか、と思いました。お孫さんへの愛でもあるし、心配だったからですね。

 

では、一つずつ、もう少し詳しく意味を考えていきたいと思います。

ここで、まずはタカラの種類が

「カガミ」と「ツルギ」というのは分かると思いますが、

「タマ」と「ヒレ」は、次のような意味だと考えました。

 

タマ(玉)とは、

「タ」のマ=助けになるものであり、それが貯まっているものである。

何が貯まっているかというと、先祖の「タマ」=霊(祈り)が貯まっている

と考えると良いと思います。

 

ヒレ(比礼)とは、

悪いヒ(=霊)を払うもの。悪くなる前に防ぐもの。

 

 

1、オキツカガミ   置鏡:自分の姿を見る(おきつかがみ)

置き鏡:自分の姿を映しみて、日々に「ガ」に曇っていないか、役割に相応しい姿になっているかを確かめなさい。

また、トミ・タミの「ガ」を姿から確かめなさい。

 

 

2、ヘツカガミ    辺鏡:自分の表情を見る(へつかがみ)

辺つ鏡(手持ち鏡):自分の顔を映しみて、日々に顔の色・表情から心に「ガ」が入り込んでいないか確かめなさい。また、トミ・タミの「ガ」を顔を見て確かめなさい。

 

 

3、ムラクモツルギ   悪党を斬る(やつかのつるぎ)

群がってくる「クモ」や「ハタレ」などの悪党を退治すべく、常に準備・心配りをしなさい。

 

 

4、ウナルタマ    産成玉:出産を祈る(いくたま)

人の出産の無事を祈ると共に、子宝がなかなか授からない場合には、良い子が授かります様にと天に祈りなさい。

事が上手く運ばない場合にも、自信がない場合にも、この「タマ」にご先祖の祈りも貯まっていると思って、ご先祖も一緒だと思って、安心して出産を祈りなさい。

 

 

5、タマカエシタマ    霊返玉:葬儀を行う(まかるかえしのたま)

亡くなった人の「タマ」(霊)が、無事に「ア」(天)に帰れるようにと、祈りなさい。

亡くなった人の「タマ」(霊)は、敵味方関係なく、「ア」からの授かりなので、無事に帰れます様にと、清くお祓いをして丁重に返してあげる事を忘れない様に。

 

 

6、チタルタマ    幸足玉:恵への感謝する(たるたま)

天から頂いている、「サチ」(幸)に感謝をして、またこれからも恵みを頂けます様にと、祈りなさい。

 

 

7、ミチアカシタマ   道証玉:天の道を実現する(ちかへしのたま)

天の「ミチ」(道)が、地に「アカシ」(明らかに実現)されます様にと、祈っていなさい。

 

 

8、オロチヒレ   愚痴比礼:為政者の悪の防御(へびのひれ)

「オロチ」とは、マツリゴト(政治)に関わる人の恨みや妬みから、朝廷に反逆する悪党となった者達を言い、そのようは「オロチ」が出来ない様に気をつけると共に、「オロチ」が現れた場合には、勇気を持って退治しなさい。

 

 

9、ハハチシムヒレ   派恥シム比礼:身内の悪(恥)の防御(はちのひれ)

「ハハチ」(いろんな種類の恥)特に「シム」(肉親関係)からの恥となる「マツリゴト」の私的乱用には、くれぐれも気を付けなさい。身内だからといって甘い処分にしたりすると、大きな国の乱れになるので、特なる注意をしなさい。

 

 

10、コノハヒレ   固の派比礼:道具や武器インフラの整備(くさぐさのもののひれ)

現代で言えば「インフラ」の整備や、武器の準備や手入れ、その他道具類の整備に気を配りなさい。

 

と、このように10個の「カンダカラ」の意味(宝の一つひとつに込められたメッセージ)を考えてみました。この「タカラ」はあくまでも象徴としての意味だったと思いますので、この物自体が金めな宝物だったり、魔術の道具としての価値があるという事ではなかったと思います。

ここを勘違いしないことが、大切ですね!

でも、このタカラの意味から、アマテルカミ様が考えておられた、為政者としての心構え、気を配るべき大切な点も分かりますね!

 

以上、今日は「トクサタカラ」についてのお話でした。(中では、9番の解釈が一番難しかったですね)

 

みなさまも、絵を見て言葉を読んで、意味を考えてみてくださいね!ご意見、コメントなどございましたら、また宜しくお願い致します。

 

追記です:(3月9日)

その後の事がありました。大事なところを、忘れていました。

この「トクサタカラ」を渡す時に添えられた、アマテルカミ様のメッセージです。

 

ホ20ー7

イタムコト     アラハヒフミヨ

ヰムナヤコ     トマデカゾエテ

フルヱタタ     ユラユラフルヱ

カクナセバ     スデニマカルモ

ヨミカエル     フルノコトゾト

ミコトノリ

 

イタムコト            =政治に不具合や行き先不安が

アラハヒフミヨ      =生じて来たら、1から順に2・3・4

ヰムナヤコ            =5・6・7・8・9

トマデカゾエテ      =10まで数えて、(このトクサ宝を順に見て行って)

フルヱタタ            =解決のヒントを振るい出せ、良い解決になるように、

ユラユラフルヱ     =そのタカラの由来を考えながら、振るい出せ、

カクナセバ           =その様にするならば、

スデニマカルモ     =既に、最悪の事態になってしまった事からも

ヨミカエル           =その理由を読む事により、新展開に繋げられます。

フルノコトゾト     =(古くからの言い伝え)良い解決策を振るい出しなさい、

ミコトノリ           =と、アマテルカミ様は、仰いました。

 

「1から順に10まで数えて振るえ」とは、短気を起こしてカッとなり、即断で指示してしまうことの戒めでもあり、

「トクサタカラ」を1から順に10まで見ていって、自分の今の問題の教訓は、どのカタラから授かることができるか?を見ていく様にとの意味の両方の意味で言っておられると思います。

 

「フルエタタ」とは、解決法を「タタ」(=人を助ける明るい解決法で)振るい(篩にかけて)出しなさい、という意味。

 

「ユラユラフルエ」とは、問題が起きた由来(原因)から考えて、振るい(篩)にかけて出せという意味。

 

「スデニマカルモ ヨミカエル」とは、既に最悪の自体からも、災い転じて福となしなさい!失敗の理由を読むことにより、成功に繋げられるということを教えておられるのだと取りました。

 

やはり、愛情深い教えだったと思います。

 

その後のことですが、残念ながら語るも無残なことに・・・

アマテルカミ様の温かいお心が少しも反映されず、この「トクサタカラ」も少しも使われた形跡もなく、

考える時間がゼロで、大変な大変な大判断がなされたのでした!

 

ホ20−30

イカルガノ ミヤニウツリテ

ソノアスカ ウテナニヨモオ

ノゾムオリ シラニハヤマニ

カラストフ クマノトオモヒ

ミヤウツシ

 

斑鳩宮に宮遷しをして、その明日に、ウテナから四方を見た折に、白庭山に烏が飛んだので、「クマノ」と思って宮遷しを決定しましたということですね。

 

「クマノ」と思って、宮遷しをしたというのも心理を理解するのが、難解なのですが、

ホノアカリさんは、アマテルカミの弟さんの「ソサノヲ」さんの事を思っておられたのでしょうか?

「クマノ」だったら、何故縁起が悪いのか?(※私は、「クマノ」を文字通り不吉と取りました)

 

私流に考えましたのは、「シラニハ」とは、朝廷のことを意味しますので、自分の新しい朝廷に、不吉なカラスが飛んだ!ホノアカリさんは、きっと、「ソサノヲ」さん事を連想されていたのではないかと。「ソサノヲ」さんの落ちぶれて朝廷からは外され、死刑をやっと逃れて流浪人になった事を思い出し、「クマノ」=縁起が悪いと思われたのかもしれません。

 

やはり、アマテルカミ様の教訓の通りに、ゆっくり時間をかけて考えたら、取るに足りないことだって、直ぐに気づけることだったと思います。烏ぐらい、どこにでも飛ぶでしょう!アマテルカミ様も、カラスに守られていたんですよ!その、あまりにも小さなことを気にしすぎて、大切な教訓を少しも聞き入れない態度こそ、「クマノ」と、言ってやりたいです。

 

でも、これが人生であり、人の世なのですね。ホノアカリさんの失態は、まだ続きますが、このドラマだけでも、大スケールの映画を観ている様で、私はホントに涙を禁じえません。(T . T)

 

松井屋酒造場のこと:

  • 2019.03.07 Thursday
  • 23:08

 

半布里戸籍の富加町に、富加町郷土資料館の他にもう一つ、立派な資料館がありました。こちらは、300年続く造り酒屋の松井酒店。岐阜県重要有形民族文化財に指定されている、松井屋酒造場さんです。予備知識は全くありませんでしたが、資料館となっていますので、訪ねてみました。

 

 

酒造資料館になっています。(入館料は300円で、案内してもらえます)

 

 

故郷の地酒も、「新酒ができました!」の貼り紙も出ていました。

 

(一番左のが『半布里戸籍』(はぶりこせき)です)生酒:菌が生きています

 

時期的に新酒の出てくるタイミングで、運良く店頭に今年の搾りたて『半布里戸籍』(はぶりこせき)が並んでいました。300年続く造り酒屋の昔ながらの手法で作った新酒とならば、絶対に買わずにはおられません。忘れないうちに、早速購入!

 

 

ご主人が、蔀戸の説明をして下さいました。上に跳ね上げの方が、引き戸より簡単ですね。

 

 

この建物の梁は名古屋城に使ってあった、一番太くて長い梁と同じ程度の立派なものだそうです。

梁の上に人が寝たら、すっぽりと体が入ってしまうほどのスゴイ木が使ってあります。

 

 

何と、歴代の総理大臣にずっと、「国酒」と書いてもらっが色紙が飾られています。

ここに来られて書いてもらったのかどうかは分かりませんが、とにかく歴代の総理大臣はずっと、

ここのお酒を飲まれたということは、確かでしょう。

 

(現在の総理大臣:安倍晋三さんの「国酒」で終わっています:因みに一期の安倍首相のも上にあります)

 

(蔵の中、現在の酒樽が並んでいます)

 

いよいよ、これから工程の説明に入ります。

ご主人がマンツーマンで説明してくださるのですから、ありがたいですね!

 

(お米を蒸す、大釜です:焚き口は地下に降りていって、下の方から炊きます)

 

 

お米は、八十八と書いて、「米」(コメ)と言いますが、八十八の手間がかかると言われています。

これは、知っている人が多いと思いますが、それを原材料に今度は、「酒」にするには、あとどれだけの工程が必要かと言いますと、

何と、千の工程が必要だと言われます。それで、全部で八十八+千で、千八十八の工程になるのだそうです。

お酒にするのに、そんなに手間がかかるとは、知りませんでしたので、びっくりしました。

酒造りって、大変なんですね。

 

(左側の言葉は現代語ですが、右側のカタカナ文字は「ヲシテ文字」で書いても通用しますね)

米を水に浸け置くことを「ホトベル」と、業界用語でも使っていた様ですね。

 

 

『日本山海名物図会』に5枚の絵として、昔の酒造りの工程が描かれているという説明です。

全部で5枚ということは、一枚が200工程なのですか?と尋ねると、「そうです」と。

よく見ると、多くの職人さん達がそれぞれ、色んな作業をしていることが解ります。

 

 

ですから、道具の種類も実に多いですね!これから、沢山の道具を見せて頂くのですが、

とてもとても、種類も量も多いです。大きい道具から小さい道具まで、写真に撮らせていただいただけでも

ご紹介しきれませんので、今回のご紹介はほんの一部です。

日本でも、これだけ沢山の種類の道具が一度に集まっているところは他に中々ないらしいです。

 

 

 

 

 

 

 

これは、絞り機になります。布袋に詰めて、それをいつくも重ねて重石をかけて、みんなでぶら下って、

絞っている図が書いてありました。本当に何から何まで、力仕事ですね!!

 

 

(アミダグルマと言って、釣り上げるための酒屋専用の滑車ですね)

 

 

屋根裏部屋には、酒樽なども保存してあります。

昔は、職人さんがここで大勢寝泊まりして、仕事を続けていた場所です。

屋根裏から見ると、蔵の作りがよく分かります。母屋と垂木が逆になっていて、

これは正倉院と同じ「校倉造」(あぜくらづくり)と言うのだそうです。

「ヲシテ文字」のムの形に合掌するように、太い垂木が組んであって、

その上に横木の母屋が渡してありますね。更にその上にびっちりと分厚い板張りです。

 

手作りの酒造所がこれからの時代も、また盛り返して残っていって欲しいですね。

 

 

追記です:『半布里戸籍』のお酒を呑んだ感想ですが、これが上質、本物の日本の酒というお味でした。沢山の体に良い菌が生きていて、百薬の長と言われるわけですね。搾りたて新酒は特に年に一度の幸せが味わえます。2回目に出かけ行った時は、濁り酒の方と両方購入してきました。濁り酒は、より濃厚な感じです。注意事項としては、蓋を開けると発酵の力で爆発します(笑)ですから、最初から蓋をゆるくして下さっています。

 

 

『半布里戸籍』(はにゅうりこせき)について:

  • 2019.03.01 Friday
  • 22:45

半布里(はにゅうり)戸籍を見学に行ってきました:

 

岐阜県は加茂郡富加町の「富加郷土資料館」へ『半布里戸籍』(はにゅうりこせき)の資料を見に行ってきました。『半布里戸籍』は、現存する日本最古の戸籍「大宝二年(702)御野国加毛郡半布里戸籍」(みのこくかもぐんはにゅうりこせき)として有名です。

 

(富加町郷土資料館)

 

(『半布里戸籍』(はにゅうりこせき)のグッズもあります)

 

この戸籍に記された富加町は、濃尾平野の北東に位置し、津保川、川浦川によって育まれた緑豊かな地で、温暖な気候にも恵まれ、古くから人々が生活している地域でした。そんな富加町ですが、近年の発掘で、川浦川の南、河岸段上の丘に立地する東山浦遺跡(ひがしやまうらいせき)・羽生遺跡(半布里遺跡)に、1300年前の「ムラ」の跡が見つかり、この年代は「半布里戸籍」と同年代であることから、この戸籍に記された人々が暮した「ムラ」の跡だと考えられています。

 

 

(住居のジオラマ模型)

 

その様な意味で、富加町はいにしえの人々とその暮らしを「記録(戸籍)」と「痕跡(遺跡)」から探ることのできるとても貴重な町なのです。

 

 

(これは、現物ではなく精密なコピーです。良く見ると、裏面に文字が透けて見え、使われているのがわかります)

 

では、何故この大昔の戸籍が残っていたのかと言いますと、資料館の説明書にはこのように書いてあります。

 

6年ごとに作り替えられる戸籍は、都で30年間保存する様に定められていました。この保存期間を過ぎたものは破棄するか、裏面を再利用しました。半布里戸籍の裏面も、作られてから46年後に東大寺写経所の「帳簿」にリサイクルされています。幸いにも帳簿にリサイクルされたために更に保存されることとなり、東大寺写経所の倉庫がいっぱいだったのか、それとも何か理由があるのかは定かではありませんが、何故か天皇家の宝物庫である「正倉院」に仮置きされたまま、1000年以上も忘れ去られてしまったのです。幾つかの偶然を経て奇跡的に現在まで残ったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、何故戸籍をつくったのか?と言うことに関しては、次の様な理由によるものです。

 

中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我氏を滅ぼした対価の改新(645年)の後、あすかの地にあった朝廷は、当時の先進国である唐を見習い、法による国の統治を目指しました。その結果できあがった大宝律令(701年)にのっとり、各地に住む人々を書類を通して直接的に把握しようとしました。そこで全国を「国・郡・里(郷)」に区分けし、各里(郷)に住む人々の情報を記録した戸籍を作成しました。こうしてつくられた戸籍は、朝廷が税や兵士の徴収や班田のための資料として利用し、かくちの情報を把握するのに役立てました。

 

 

(この図が問題の秦人(はたひと)=緑、と秦人部(はたとべ)=オレンジ、が多いと思える図です)

 

 

 

 

以上が、『半布里戸籍』の意味と残った理由ですが、貴重な資料が出ていますが、近くにいても中々気づきませんでした。以前から池田先生が言っておられて、今回はまた教えてもらって、この一週間以内に都合2回行ってきました。一度目は、村人の人口分布に秦人(はたひと)と秦人部(はたとべ)の割合が多かったので驚きましたので、2回目は秦人(はたひと)の割合について少し質問をして、疑問点について調査を一歩前に進めてきました。

 

女性の係りの方への質問でしたが、2回目の質問で、やっぱりこの地域の秦人(はたひと)の割合は、戸籍に残っている部分の地域に関しては多かったようだと、お答えをいただきました。職種や身分の分布に関する資料の出どころ、もう少し詳しい説明については、また詳しい方に聞いて調べておきますとのことでした。

 

 

 

今回は、沢山の写真を掲載させていただきましたが、展示の資料の出所が良くわからないのと、詳しい説明パンフレットもありませんでしたので、展示パネルが一番詳しいかと思って、出させて頂きました。

 

一番気になったところは、渡来人の割合がこの発見の場所だけ多い様に見えたのは、どういうことだったのか?ということでしたので、それに関しましてはまた、改めて調べてみたいと思っています。何れにしても、この時代の渡来人は日本の地に溶け込んで、日本人として生活を続けて行ったということだと思います。

 

節分の『星祭り』の話:

  • 2019.02.20 Wednesday
  • 16:22

 

今日のお話は、ヲシテ時代の『星祭り』についてです。

 

「節分」で気がついたのですが、仏教行事としての「星祭り」は、毎年行われていたのですね!今まで気がつきませんでしたが、我が家が檀家のお寺でも、節分に「星祭り」をやっていました。お寺の役員をしていた母が、毎年の様に「節分」の行事に行って、豆と御守りを貰って来てくれていました。いつもは袋から出してでしたが、今年は袋ごと渡してくれましたので、その袋を見てみると、何と!その袋には、『星祭開運御守』と書いてありました。今まで節分の御守りだと思っていたのは、『星祭り』の御守りだった訳です!気がつきませんでした。

 

(節分と同時に「星祭り」が行われていました)

 

最近は『ホツマツタヱ』を勉強していますので、「ヲシテ」時代の行事との関連についても気になります。少し前のブログの記事にも、惑星と行事との関係についても書かせて頂きましたが、星に関しては、「ツツヰ」という言葉も『ミカサフミ 』に出てきていて、それが五つの惑星のことで、五つの「ツツ」の日=(月と日が同じ数字で重なるコトホギの日)に対応している、との気づきもありました。

 

そんな訳で、また惑星いついて、もう少し深く、今回は『星祭り』の行事として、どう対応がつくのだろうかと、考えて行ってみたいとおもいます。

 

さて、星祭りといえば、「阿含の星祭り」などは、よくコマーシャルにもありますので、有名ですね。ヲシテ講習会へは、新幹線で京都駅まで行くのですが、京都駅の通路にも『阿含の星祭り』の火で大きく焚き上げる宣伝ポスターが掲げてありました。不思議に何かヒントを感じて、写真を撮ってきました。

 

(阿含の星祭りの大きな看板:京都駅の壁にありました)

 

先ずは、檀家のお寺でやる節分の「星祭り」なのですが、内藤さんのお世話で買ったばかりの縄文カレンダーで調べてみました。それによりますと、本来は節分が先(12月29日)で、立春のトシワケ(大晦日)は12月30日で、年明けの1月1日が「ツツ」の「星祭り」なのだと思います。仏教の星祭りは、全部一緒にやっちゃってるのかな?

厳密には、「節分」と「大晦日」と「元旦の星祭り」は違うという事だと思います。

 

 

(縄文カレンダーで、古い行事を細かく調べます)

 

話を進める前に、先ずは前回のおさらいです。五惑星の順は方位と色の関係から、対応させました。

 

北(キ):黄[金星]

東(ツ):白[木星]

中(ヲ):黒[土星]

南(サ):青[水星]

西(ネ):赤[火星]

 

これは、以前のブログで書かせて頂きましたね。

「ツツヰ」についての考察:その1

http://woshite-study.jugem.jp/?eid=13

ツツヰについての考察:その2(色「イロ」とは?)

http://woshite-study.jugem.jp/?eid=15

 

今回は、一歩進んでこんな事も考えてみました。

五惑星の古名、漢字の伝わる前の時代は何と言っていたのかということです。これは、ヲシテ文献に見当たりませんので、自分なりに推測してみました。古代名推測のヒントにしたのは、行事の内容との対応です。金星から順に、五惑星の古名は、次の様になりました。

 

(ツツヰの図:今回の新しいところは、『星祭り』とし五惑星の古名を考えてみました(推測です))

 

惑星の古代名:

 

1、金星 カナホシ   1月1日(星まつり:金木「カナギ」を焚く)

2、木星 キホシ      3月3日(ひな祭り:桃や桜の「」の花を見る宴)

3、土星 チホシ      5月5日(田植え祭:マキを食べる・に浸かって生えを言祝ぐ)

4、水星 ミツホシ   7月7日(七夕祭り:笹に願い事をつけて川のに流す)

5、火星 カホシ     9月9日(菊の祭り:菊を食べる・栗を食べる・収穫を祝う)

 

上から順に、説明させて頂きますと、

 

1、金星1月1日は、星祭りで、金木(カナギ)=[願い事を書いた木片]を焚きあげます。

それを燃やして、天に届けると叶う(かなう)と言われます。というところから、「カナホシ」ではないかと考えました。

 

2、木星3月3日は、ひな祭りで、桃や桜の木の花が咲く時期ですね。木の花は、木(キ)の端(ハナ)でもありますので、これから木(キ)の生命力が漲ってくるという意味で、「キホシ」ではないかと、考えました。

 

3、土星5月5日は、力(チ・カラ)比べ、土(ツ・チ)に田植え、粽(チ・マキ)を食べるなど、「チ」に関する行事が多いことから、「チホシ」ではないか、と考えました。

 

4、水星7月7日は、七夕祭りで、天の川は水(ミツ)に関するお祭りです。短冊に願い事を書いて笹につけ、それを川の水(ミツ)に流します。またたなばたの時期はお盆にあたり、お盆の行事と言えばお施餓鬼です。お施餓鬼では「水向け」ということをします。お供えにお水(ミツ)をかけてお祈りします。また、精霊流しの行事もあって、ご先祖様の霊を乗せた船を川の水(ミツ)に流します。ミツに関する行事が多いことから、「ミツホシ」ではないか、と考えました。

 

5、火星9月9日は、菊の祭りで、菊(ココナ)を愛でたり食べたりします。栗も食べますし、秋の実りである「カ」に感謝して味わう行事がありますので、「カホシ」ではないか、と考えました。

 

以上の様に、今も伝わる年中行事の内容から考えましても、『星祭り』というのは旧暦の1月1日に行うものだけではなく、他の行事も星の名前と対応が付きますので、全て五つのコトホギの「ホシマツリ」としてあったのではないか?と、思えてきたのでした。

 

では、「ホシ」とは一体何であったのか?ということですが、前回の記事にも書きましたが、「ツツヰハモトノ    イロツカサ」という言葉から、惑星は季節を司ると考えられていたと思えます。ヲシテの文字からは、その季節の「ホシ」=「ホ」(実体が開く)「シ」(成すもの)という意味で、実体を成さしめるものという意味だったと思います。

ですから、『星祭り』では、星からのエネルギーによって地上に実体が成される様に、新しい季節の星に祈るというわけです。

金木(かなぎ)を焚いて祈る絵を描いてみましたよ。ヲシテ文字の「カ」は、意味をよく表していて面白いですね!

ちなみに、金木というのは「火がつきやすい」という意味からの名前だと言われますが、ヲシテで考えた方が、ピンと来ますね。

 

(お坊さんが金木(かなぎ)を焚いて、星に願ってくださっている図:神社でもやると思います)

※護摩木(ごまぎ)と言われている場合も多いです。

 

例えば、

 

1月1日からの金星(カナホシ)には、収穫を叶(カナ)えてもらえる様に祈る。

3月3日からの木星(キホシ)には、木(キ)に気(キ)が入ります様にと祈る。

5月5日からの土星(チホシ)には、土(チ)に力(チカラ)が入ります様にと祈る。

7月7日からの水星(ミツホシ)には、水(ミツ)が安定する様にと「ササ」を流し祈る。

9月9日からの火星(カホシ)には、秋(カ)の季節の収穫を祈り、感謝する。

 

(※九九の日で完成なので、11月11日はありません)

 

と、言った様に、五節句と言うのは、それぞれ新しい季節の星に願う『星祭り』であったような気がします。現在は仏教行事の節分星祭りだけが、中国から伝わってきたとして残っていますが、日本古来の行事だったかもしれませんね。何れにしても、五つのツツの日は「星祭り」だったとしても、一年の最初の金星(カナホシ)の星祭りは特別だったので、「星祭り」として残っているのではないでしょうか。今回はこのような結論になりましたが、さて、どうなのでしょう?

 

また、惑星の軌道に関しても調べてみましたが、季節と見え方の関係も単純ではありませんので、何月に良く見えるからという理由では、対応が付きにくいと思いました。やはり、光の強さやに関する要素が強いのではないでしょうか。

 

人の心への影響、「ヰクラ」との対応については、今回は少し考えてみました。適当かどうかは分かりませんが、チャレンジとしてやってみました。

 

(カセ・)金星[カナホシ]:黄ーーミヤビ(思いやる心)

(ウツホ)木星[キホシ・]:白ーーココロバ(良心)

(ハニ・)土星[チホシ・]:黒ーーシム(欲)

(ミツ・)水星[ミツホシ]:青ーーシヰ(生存の欲)

(ホ・・)火星[カホシ・]:赤ーータマ(魂・霊)

 

(5つの惑星の地球や人とのつながりの図:季節や人の心とつながっていますね)

 

惑星が人の心=「ヰクラ」へ及ぼす影響は、季節とはあまり関係ないと思われますので、五つの惑星からツツで繋がっている、その割合がどれだけか?というバランスで、人の心の状態が決まってくると、考えればいいみたいですね。

 

例えば、

金星からの影響が強い人は、ミヤビで思いやりのある人、

土星からの影響が強い人は、シムが強くて欲の深い人、

などと、違いが出てくるのかも知れません。

惑星って、見えたり見えなかったりで、その気ままさが人の心のイメージに合いますね。

 

ついでながら、五色のタマといえば気になるのは、伊勢の神宮と元伊勢の籠神社の社殿にある「五色の座玉(すえだま)」です。色としても、「青・赤・黄・白・黒」とバッチリ合っています。調べてみたら、ある人のブログにこんなことが書いてありました。

 

 

(以下引用)

ーーーーー

さて、そこでこの「五色」ですが

古代中国に成立した「五行説(思想)」に

由来しています。

 

五行の色は「木・火・土・金・水」を

象徴しており、それぞれ次のような意味を

持ちます。

 

木=東・青龍・青

火=南・朱雀・赤

土=中央(天位)黄

金=西・白虎・白

水=北・玄武・黒

ーーーーーー

ということですので、説としては、中国の五行説からの由来らしいです。

しかしながら、「ヲシテ」時代からあったと考えれば、「ツツヰ」の惑星だったかも知れません。とりあえずは、可能性はあるかも?というところです。

 

追記:

 

「五行説」とヲシテから推測される五惑星との対応を比較してみました。

 

 

「ツツヰのホシの図」の季節による色は、ヲシテに記述されている通りに当てはめてあります。惑星の位置は色や今も行われている日本の行事から考えて当てはめましたが、中国の「五行説」と比較してみますと、木星の位置と土星の位置だけは五行説と一致していますが、その他は異なっており、色の対応については、ヲシテの記述と「五行説」は、全く違っています。似ていますが、全く違う発想からのものだと考えた方が良いようですね。

また、ウイキペディアの記述によりますと、「五行説」では、(水・金・火・木・土)の惑星名前は後付けであって、本来は別の名前があったということのようです。

一方、「ツツヰ」の方は、ヲシテの記述の古さや行事の起源の古さから、古代からずっと伝わるヤマトの自然哲学だったと思われます。皆様は、比較してみてどう思われるでしょうか?

中国の思想だけではなく、日本のヲシテ時代からの思想も、表にどんどん引き出して行きたいですね!

 

五行思想について、ウイキペディアからの引用)

ーーーーーー

五行思想(ごぎょうしそう)または五行説(ごぎょうせつ)とは、古代中国に端を発する自然哲学の思想。万物はの5種類の元素からなるという説である。

また、5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底に存在する。

 

一説によると、元素を5つとしたのは、当時中国では5つの惑星が観測されていたためだともいうが、後世の憶測説であり、そのような伝説なり主張が古典の中にあるわけではない。当時から知られていた5惑星の名称(水星金星火星木星土星)が五行説によっているのは後付けであり、本来の名は別にあった。

 

五行[編集]

自然現象の四季変化を観察し抽象化された、自然現象、政治体制、占い、医療など様々な分野の背景となる性質、周期、相互作用などを説明する5つの概念である。単に5種の基本要素というだけでなく、変化の中における5種の、状態、運動、過程という捉え方もされる。

木(木行)

木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となっていて、樹木の成長・発育する様子を表す。「春」の象徴。

火(火行)

光りく炎が元となっていて、火のような灼熱の性質を表す。「夏」の象徴。

土(土行)

植物の芽が地中から発芽する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表す。「季節の変わり目」の象徴。

金(金行)

土中に光りく鉱物・金属が元となっていて、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。収獲の季節「秋」の象徴。

水(水行)

泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。「冬」の象徴。

 

 

(「五行説」の色と星の関係図)

ーーーーーー

今日のお話は以上です。また、ご意見などございましたら、コメントをよろしくおねがいたします。

 

可児市歴史資料館と(久々利城跡)

  • 2019.02.19 Tuesday
  • 22:43

可児市久々利のご紹介、3回目の最後になります。可児市歴史資料館と(久々利城跡)

 

可児市の歴史資料館は、泳宮(くくりみや)から数百メートルの近くにあって、行けば序でに立ち寄ったほうが良いですね。縄文土器や弥生土器、それに荒川豊蔵さんの作品もありますし、古志野の発掘された陶片などの展示も豊富に展示されています。

 

(縄文式土器:火焔土器?   ※写真は、全て許可を取って撮影しています)

 

 

(弥生式土器:須恵器)

 

(装飾品も多数出土してきています)

 

ずっと同じ展示というわけでもなく、新しい展示もありまして、今回は二度目だったのですが、とりあえず驚いたのは、象やサイの骨の化石もありました!えっ!こんなところに象やサイが住んでいたの?!と思いましたが、1800〜2000万年くらい前って、書いてありました。「カニサイ」だって。一気に古くなりましたね。その時代は、今のアフリカみたいに、熱帯だったのですね!

 

(1800〜2000万年前の像の化石だそうです:可児市から出土)

 

(サイの左大腿骨:「カニサイ」と命名されています)

 

また、銅鐸の最大級の実物も展示してありました。銅鐸は野洲市の銅鐸博物館でも沢山展示がしてあって、見てきたのですが、本当に一番大きい銅鐸は、レプリカでした。しかしながら、可児市の銅鐸は実物だったところが良かったです。

高さが111cm、底の直径が41cm、重さ26kgあるという、国内最大級だそうです。銅鐸は何度見ても不思議です。何しろ文字が書いてない。模様として🌀ぐるぐる巻きの「アワ」は書いてありますが、あとはだいたい線です。文字は意図的に書かないようにしたような気がします。

 

 

 

 

(本当に大きな銅鐸でした。銅鐸の秘密が解明される日も間近か?!)

 

可児市にはまた、「川合考古資料館」という所もありまして、少し遠いのですが行きました。ここにも、やっぱり縄文土器や弥生土器、鏃などが沢山展示してありました。この資料館の近くには、古墳がいっぱい発掘されています。無料で自由に見られる展示でしたが、撮影禁止のマークがありましたので、撮影できなかったのは残念でした。古墳の様子をみてみようと、探しましたところ、発掘が終わった現在は、住宅地になっているようでした。

 

(木曽川の支流に広がる地域は、太古の昔から人々の住む村が続いていたようですね)

 

寒い日でしたので、また暖かくなったら行ってみたいです。みなさまも、春になりましたら、岐阜県の可児市に足を運んでみてくださいね。いいところですよ!(^ω^)

 

 

付録:「久々利城跡」少し小高い山に久々利城がありました。

 

その城跡です。今、城跡ファンがおられるようですが、そんな方には魅力的なところではないか?と思います。

入り口は分かりにくいところにありますが、写真をとってきましたので、登ってみたところの様子を見てみてください。

 

 

 

(久々利城の本丸跡です:眺めがいいですね)

 

泳宮(くくりみや)・・美人姉妹の里:

  • 2019.02.18 Monday
  • 17:27

 

寒い中ではありましたが、2月の9日に比較的地元の岐阜県可児市久々利の「泳宮」(くくりみや)へバイクツーリングに行ってきました。その日の最低温度は、道路の温度計で見て1℃でしたので、寒そうな絵しか撮れていませんが、春や秋に行ったら今も素敵な風景が楽しめる場所だと思います。

 

(泳宮古跡:公園のようにして宮跡が残してあります。夏に行った時には良い雰囲気が感じられました)

 

(弟媛さまが覗かれた池です。この池の周りには、きっと色んな種類の菊の花がいっぱい咲いていたことでしょう)

 

(『日本書紀』の記述と『ホツマツタヱ』はだいたい合っていますね)

 

漢字では「泳宮」とか「久々利」と書きますが、『ホツマツタヱ』では「ココリミヤ」と記されていて、垂仁天皇の皇子であるヤサカタカヨリさんが、菊の栽培を楽しんでおられたということから、菊に凝るという意味の「ココリミヤ」だったような気がいたします。

 

ホツマツタヱに「ココリノミヤ」として出典のある泳宮(くくりみや)は、景行天皇が行幸をされた宮です。ヤサカイリヒコさんの二人の娘さんの姉の方の「ヤサカイリヒメ」さんは、妹の「オトヒメ」さんの薦めで宮入りしてウチキサキになられました。

 

以下、『ホツマツタヱ』には、このように書いてあります。

 

ホ38ー8

                       ヨホキサラモチ    

ミノニユク        トミラモフサク

9

ヨキメアリ        ヤサカタカヨリ        

ココナキリ        ウヱテタノシム

ココリミヤ        カレコレヱント

ミユキシテ        ミノタカギタノ

10

タカヨリノ        ココリノミヤニ

カリイマス        イケスノソメバ

サシノゾク        オトヒメトメテ

キミメシテ        ヒメオモエラク

11

イセノミチ        カヨエルノリモ

ツヤナラズ        キミニモフサク

ヤツカレハ        トツギコノマズ

ミアラカニ        メスモヨカラズ

12

アネガナオ        ヤサカイリヒメ

スガタヨク        キサイノミヤニ

メサルトモ        ミサホナランカ

キミユルシ        アネヒメオメス

13

ネシモハヒ        マキムキヒシロ

ニイミヤニ        カエリイリマス

ヤサカヒメ        ナルミノウチメ

ヰホネシモ        ソヰカヒノテニ

14

ウムコノナ        ワカタリヒコゾ

 

 

(「浅間大社」へ行った時の菊の展示をイメージ映像として重ねてみました)

 

 

(池のほとりで魚を覗く可愛い娘さんが二人、この写真も「浅間大社」での撮影です)

 

ホ38ー8

ヨホキサラモチ        景行天皇の4年2月15日に

ミノニユク              景行天皇は美濃に行幸をされました。

トミラモフサク        トミらが言うには

9    

ヨキメアリ              良い娘がいますと。

ヤサカタカヨリ         娘の父の「ヤサカタカヨリ」さんは、    

ココナキリ              菊を切って

ウヱテタノシム        それを植えて楽しんでいました。

ココリミヤ              綺麗な菊がいっぱいで、「ココリミヤ」(菊凝り宮)と言われていました。

カレコレヱント        その様な訳で、この娘を妃に迎えたいと

ミユキシテ             行幸をされて、

ミノタカギタノ        美濃のタカギタの

10

タカヨリノ             タカヨリさんの

ココリノミヤニ        ココリノミヤに

カリイマス              仮住まいをしておられたのです。

イケスノソメバ        池に魚を飼っていますと

サシノゾク              娘が差し覗きました。

オトヒメトメテ        お目当ての弟姫を留めて

キミメシテ              君はお召しになりました。

ヒメオモエラク        然し乍ら、弟姫が思うのは

11

イセノミチ              結婚して

カヨエルノリモ        嫁いで欲しいと言われても、

ツヤナラズ             私は魅力を感じないわ!

キミニモフサク       そこで、君に申し上げました。

ヤツカレハ              私は

トツギコノマズ        結婚したくはありません。

ミアラカニ             御殿に

メスモヨカラズ        上がるのも嬉しくありません。

12

アネガナオ              私には姉がおりまして、その名を

ヤサカイリヒメ       「ヤサカイリヒメ」と申します。

スガタヨク              姿がよくて、

キサイノミヤニ        お妃の宮に

メサルトモ              召されても相応しいと思います。

ミサホナランカ        姉の方をお妃にされても良いのではないでしょうか?

キミユルシ              君は、それを聞いて許し、

アネヒメオメス        姉姫を召されました。

13

ネシモハヒ              11月の1日に

マキムキヒシロ        マキムキのヒシロの

ニイミヤニ               新しい宮に

カエリイリマス         帰ってお入りになりました。

ヤサカヒメ               ヤサカイリヒメは

ナルミノウチメ         美濃のウチメに御成りになりました。

ヰホネシモ                景行天皇の5年11月

ソヰカヒノテニ         15日の日の出に

14

ウムコノナ                生まれた子の名前は、

ワカタリヒコゾ         ワカタリヒコさん(後の成務天皇)です!

 

と記述されていますので、ヤマトヲシロワケ・タリヒコ(景行天皇)さんは、4年の2月15日から、11月1日にマキムキヒシロの新宮にお帰りになるまで、美濃のココリノミヤに居られたと言うわけですね。天皇の行幸にしては長いと思いましたが、おそらく娘さんたちが元々天皇のお嫁に行く気がなかったので、説得が大変だったのだとも想像できます。

 

お父様のヤサカタカヨリさんという方は、ミマキイリヒコ(10代崇神天皇)さんの皇子ということで天皇家の血筋の方ですし、菊を植えて楽しむと言う記述からも、このココリノミヤは、タカヨリさんが菊の栽培に凝っておられて、美しい菊がいっぱい咲き乱れる宮だったことも想像されます。「イケスノゾメバ」という記述からも、菊の栽培の側には池の鯉も飼っておられたと思いますので、こんな綺麗な宮で素晴らしい環境のところからは、お嫁に行きたくないという姫さまの心もお察しできますね。

 

 

(菊の花は、天皇家を象徴し、日本も象徴する美しくも香り高いお花ですね。)

 

この間のことは、『ホツマツタヱ』には、菊の栽培に関して記述があって、「ヤサカタカヨリ    ココナキリ    ウヱテタノシム    ココリミヤ」とあるのですが、これを『日本書紀』と比べて見てみますと、この記述は省略されていて、反対に「イケスノゾメバ」の記述の方を充実させて、景行天皇が弟姫を誘い出すために、一計を案じて池に見事な鯉を沢山放って、誘い出したと、内容が盛り込んであります。菊は天皇家の象徴の花ですし、漢字国字化になってから直ぐの時代には、省きたかったのかも知れませんね。

 

(「ココナキリ ウエテタノシム ココリミヤ」の記述は省略してあります)

 

近くには、八坂入彦命のお墓もありました。何処か?よくわかりませんでしたが、看板だけは立っていて、そこには『日本書紀』からの解説が書いてありました。墓所は、この看板の近くの場所だったことでしょう。後ろの山かな?

 

(八坂入彦の命の墓:墓標は見当たりませんでした。また次回はよく見てきたいです)

 

八坂入彦命墓[看板の記述]

 

はるか昔、ヤマト政権が国内統一を目指していた頃、第十代崇神天皇の皇子である八坂入彦命がこの地方を治めておられました。

八坂入彦の母は尾張氏の出身で大海媛(おおあまひめ)、またの名を八坂振天某辺(やさかふるあまいろべ)といわれておりました。八坂入彦命は、母方の縁をたよって尾張から入って久々利に住まわれたと伝えられています。

また八坂入彦命には、八坂入媛と弟媛(おとひめ)という二人の美しい娘がおりました。姉妹にまつわる物語は『日本書紀』に記されており、ここから約2キロ西には「泳宮」(くくりみや)という古跡が残されています。

 

「泳宮」(くくりのみや)・・[看板の記述は『日本書紀』より]

 

第十二代景行天皇は即位されて四年目の二月に美濃の国に行幸されました。

天皇は久々利の里に「泳宮」という柞(こなら)の木で造られた仮御殿にとどまられました。

従者たちが「この国の八坂入彦命の娘で、弟媛という大変美しくて優しい娘がおあります。」と申し上げると、天皇はぜひ妃に迎えたいと言って、さっそく弟姫を訪ねられました。

 

しかし、驚いた弟媛は天皇にお会いすることを避けて、近くの竹林に隠れてしまいました。そこで天皇は何とかして弟媛を誘い出そうと、一計を案じ、泳宮の大日の池に見事な鯉をたくさん放って、朝夕眺めて楽しんでおられました。そうして鯉を見たくなった。弟媛が姿を見せたところを、天皇は留められました。天皇に心を開いた弟姫は「泳宮」で幸せな日々を過ごしました。

その後、天皇は都へ帰られることになり、弟媛を妃として一緒に都へ帰ろうと望まれました。

 

けれども弟媛には八坂入媛という姉がおりましたので、心優しい弟媛は、姉をさておいてはならぬとの思いから「みかどのお望みはまことにありがたいのですが、私はご覧のように容姿も良くなく、お側に長くお仕えできるような者ではございません。ただ私には八坂入媛という姉がおります。姉は容姿も美しく、心の清らかな娘です。どうか私の姉を妃にお迎えくださいますよう。」と申し上げたのでした。

 

天皇は弟媛の願いを聞き入れられて、姉の八坂入媛を都へ連れて帰られました。八坂入媛は後の成務天皇をはじめ七男六女を生み、皇后の地位につかれました。その後の天皇家は、景行天皇と八坂入媛との間の系統でお生まれになった方々が多いといわれています。

 

 

また、景行天皇さんも、お年が既に81歳の時に即位されたということですので、現代の感覚からすれば、年齢的にも若い姫さまのお相手としては、お齢が行き過ぎているような気も致します。景行天皇さんのお目当ては、弟姫様の方だったと思いますが、どうしても

というような事情で、2月15日から、10月までの長い期間にわたって居られましたので、菊の花が綺麗な満開になるまで見られたことと思います。何れにしても、弟姫様が、キッパリとお断りになられたので、姉の「ヤサカイリヒメ」さまが、嫁がれることになりまして冬になる前には、一件落着を見たというところでしょうか。

 

しかしながら、この間のことは、景行天皇さんがお年をめしても色好みで、辛抱強く娘がなびくのを待っておられたと取っては、天皇はよほど暇人で遊んでばかりおられたということになり、本来の政情とは全くかけ離れた解釈になってしまうと思います。「ヤサカイリヒコ」さんは、崇神天皇の王子、景行天皇さんはヤマトを再統一された「ヤマトタケ」さんの父上でもあられます。迫り来たる国難に対して、国の再統一をしておかねばならないとの思いで、マツリゴトに関してのお考えを交わしておられたということは、充分に考えらえます。姻戚関係をつくり、国をひとつにまとめるということが、この時代は特に大切なことだったことが、この「ココリノミヤ」の古事からも偲ばれますね。

 

その後の「ヤサカイリヒメ」さんは、成務天皇になられる「ワカタリヒコ」さんをはじめ7男6女をお産みになられて、美濃のスケキサキになられます。「オトヒメ」さまのお姉さまは素晴らしかったですね!「ヤサカイリヒメ」さんもですが、景行天皇さんが凄かったというべきか?とも。何しろ、景行天皇さんは総計81名ものお子様を残されるのですから。国難に全力で対応されていたことが、想像できます。

 

この後の「ヤマトタケ」さんへ続く物語が、また楽しみですね。

今日のお話は、以上です。また、ご意見や感想などございましたら、コメントをよろしくお願いいたします。

 

 

「ココリミヤ」(泳宮)へ再び:荒川豊蔵資料館

  • 2019.02.17 Sunday
  • 14:16

荒川豊蔵資料館の巻

 

「ココリミヤ」へ二度目行ってきました。ここは岐阜県可児市久々利(くくり)です。今回は、近くにある荒川豊蔵さんの陶芸工房でもあった資料館へも行ってきました。久々利という土地は、岐阜県でも不思議な雰囲気のあるところで、古代の情緒を残すと言いますか、通りにあるレストランへ始めて行った時にも、この一帯だけタイムスリップしているような気さえしました。

 

(ここの石段を登っていきます)

 

(荒川豊蔵資料館では、季節ごとに新しいテーマで展示をしておられます)

 

先ずは、荒川豊蔵資料館へ。曲がりくねった道路沿いの、森の中にあります。荒川豊蔵さんという方は、人間国宝の陶芸家として有名なので知っておられる方は多いと思います。どんなお仕事をされた方なのか一言で言いますと、志野焼の復興ですね。桃山時代の志野焼が瀬戸で作られていたという定説でしたが、どうもそうでは無いと思われて、探索の結果、土岐の土中に一片の古い志野焼のかけらを見つけられます。その世紀の大発見から、ご自分で志野焼を再現しようと取り組まれ、見事に「志野」と「瀬戸黒」を作る技術が認められて61歳で人間国宝に認定された方ですね。

 

(このフエルトの上にのった、陶片の一片が豊蔵さんの発見されたものです。周りの大きな陶片は、後からの発掘で出てきたものだということでした。※許可を取って撮影させて頂いています)

 

記念館の資料には、こんな風に書いてありました。

ーーーーーー

絵の勉強をしながら、焼き物の窯元で働いているうちに「焼き物」が」好きになっていきます。そして36歳の時に、志野筍絵筒茶碗『玉川』(しのたけのこえつつちゃわん・たまがわ)と出会います。それまで、志野を焼いた窯は愛知県瀬戸市にあると考えられていましたが、『玉川』に付いていた土が瀬戸の土ではないと思った荒川豊蔵は、志野と同じ時代に焼いていた焼き物の陶片を見た記憶を頼りに、可児へ出かけ志野陶片を発見します。この発見で、「志野」などのやきものは岐阜県美濃地方で焼いていたことが分かり、陶磁器の歴史が変わりました。荒川豊蔵は、この発見に不思議な縁を感じて、約400年前に焼かれていた「志野」を焼こうと決めました。

ーーーーーー

 

世紀の大発見から、400年前の焼き物を復活させるというところは、『ホツマツタヱ』の発見物語に似ていますね。

 

(志野蕨絵(わらびえ)茶碗:荒川豊蔵さん作)ヲシテ文字の「ワ」の文字に見えますね!

 

(瀬戸黒茶碗:荒川豊蔵さん作)黒が渋いですね!

 

(荒川豊蔵さんの制作風景)

 

 

 

(志野焼の陶片は、9番のこの場所で発見されました!)瓦に9と書いてあります

 

(近くには、今も荒川豊蔵さんが焼いた陶片が捨ててあります)持って行ったらダメですよ!

 

寒い冬の展示でしたので、「寒っ!(さぶっ!)」というテーマでした。

荒川豊蔵さんのお宅は、工房の敷地にありますが、とにかく昔の家なので寒いです。

エアコンとか、ストーブもありませんので、火を起こした火鉢におこたです。

お酒も好きなので、とっくりとかいつも使っておられた盃とかが展示してありました。

 

 

(寒い日は、火鉢で暖をとって)

 

(荒川豊蔵さん愛用の徳利と盃:自然の中で生きてるっていう感じですね)

 

(荒川豊蔵さんは、画家を目指しておられましたので、絵も上手です:みかんに橙の絵)

 

(入り口展示の瀬戸黒和歌茶碗:黒地に白の和歌の文字が素敵ですね!)

 

みなさまも、岐阜県可児市の泳宮(くくりみや)に来られた際には、荒川豊蔵資料館へ足を運んでみてくださいね♪

荒川豊蔵資料館の画像が多くて長くなりましたので、泳宮のお話は、また項を改めてアップさせていただきます。

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